「当事者の語りから学ぶ集い」で、 お話をした時の冊子

私は子供の頃から生きづらい思いを抱いていて、ある意味では生きる事に絶望していて悩み多き人生を送っていました。

そして、中学生のときには自殺肯定論を書いて教師や親に叱られたこともあり、生きている意味が分からずに随分苦しみながら成長をしました。

幼少から思春期を悩みながら過ごして、何かと問題の多い人生でしたが、3児の親となりそれなりに悩みや幸せを感じながら過ごしていたある日、事件は起こりました。

暴走族に捕まってしまった子どもたちを助けたことが原因で、逆恨みをされて事件に巻き込まれたのです。
正しいと思う事をした結果、それが原因で大切な息子を自殺で亡くしました。
「人を助けるのは良い事だが、そのせいで自分の息子に何かあったらどうするんだ」と私が父から叱責された二時間後に外出したままだった次男の訃報が入りました。その瞬間に私の人生が足元から崩れ去り、全てを失ったような思いになりました。

信じていた人達に裏切られて、良い事をしたはずなのに何故息子を亡くさなければならなかったのかが理解出来なくて、起こった出来事を認めることもできずに、苦しみました。

当然両親や周りから責められましたが、それ以上に自分自身を責め続けました。

いっそ死んでしまいたいと思って過ごしていましたが、年老いた両親や二人の子どもの事を思うと死ねませんでした。

私たちを裏切り次男を死に追いやった友人や関係者を怨んで過ごした時期もありました。自分自身も他の人も誰も信じられなくなり、人と関わるのが怖くなってしまって、孤独感や孤立感に襲われて不安と混乱の中で戸惑い、心無い人の中傷にも苦しみました。悔やんで悔やんでいつも後悔をしながら「あの日あの時に戻れたら」と、どんなに思った事でしょう。

それでもいつしか時間の経過とともに私のかたくなな心は、温かい人達との触れ合いの中で少しずつ元気を取り戻し、現実を受け入れられるようになっていった頃、先立った息子が夢に現れて「ママ、もう泣かないで。悲しまないで幸せになってね。誰の事も恨んでいないよ。」「人もママ自身の事も許してね。いつも笑っていてね」と言ったのでした。

21歳の息子との永遠の別れを12年前に経験して、改めて命と向き合うことになり、生きることや生かされていることの意味を学びました。

人によって傷ついた心は、人によって癒されなければならないのです。

やはり人は人の中でしか生きられないのです。

そしていつの頃からかこの悲しい出来事を繰り返さないために、傷ついた人に一つでも多くの笑顔が戻りますように・・・私の経験がお役に立てればとの思いを実行し始めたのです。

後悔や怨念を手放して全てを許して受け入れたときに、一番許されてホッとしたのは私自身でした。

毎年自らの命を絶つ人が増加しているので、とてもやり切れない思いでおります。

死にたくて死んだのではない、自ら死を選ぶしかなかったのだという意味で自死という言葉が使われるようになってから随分経った気がします。

自殺をどう呼ぼうと生きることよりも死を選んだことには変わりはありませんが、どのような事情や理由があっても死なないで欲しい、こんなに悲しい思いをする人がこれ以上増えないで欲しいと切に願っております。

「死にたい」は「生きるのが辛い。うまく生きられない」というサインなのです。思うように生きられなくて絶望して人生を終わりにするしか方法のなかった方たちはどんなに心残りだったことでしょう。

そして先立つ不幸の後には、かけがえのない大切な命を喪って傷つく家族や友人の悲しみや憤り、自責の念や戸惑い、言葉で言い表せない程の情けない思いと後悔を残します。

本来、私達はみな幸せになる権利と義務があるはずなのですが・・・

「息子が生きていたらどんなだろう」と思ったこともありましたが、起こったことはなかったことにはできませんし、過ぎた時間は二度と取り戻せないのです。

つらくて時間がかかるとは思いますが、先に旅立った人たちの思いを遺された私達が受け止めて、それぞれの人生を生きぬくことが大切なのではないでしょうか。

後悔や償いの人生を送るのではなく、生かされている意味を考え、命を大切にして生きることができれば、先に逝った人たちの思いにも報いることができるのだと思います。

今は希望が持てないかもしれませんが、希望が持てない時だからこそ、「今はつらくても、今は無理でも、いつか望みは叶う」と思って欲しいのです。

この13年以上連続で年間自殺者が3万人を越え、なお増え続けています。
今年のWHO世界自殺予防デーには現職の大臣が自死をするような国になってしまいました。

この悲しい現実が急変するのは難しいかもしれませんが、少しずつでも私に出来る事をしていきたいと思っております。

苦しみの最中にいらっしゃる方に一つでも多く救いの手が差し伸べられて、少しでも心安らぐ時が訪れますようにお祈りをしています。